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2011年05月25日 11:08 ふと思う・・・待て待て、幸せとは。 新着情報

「幸せは、それぞれの心の物差しでしかはかれない。」

それは、そうでしょう。

でも、だからこそ例えば、無闇に幸せをひけらかすことが、時として人の心の闇を作ることもあるの

です。ああ、良かったね、私もああなりたいな、と思ってくれれば誰もが円満で幸せでしょう。ところ

が、妬みや嫉妬の対象にあの人の幸せを崩してやろう、奪ってやろうと思われてしまうことがある

ということです。それは、当の本人ですらそんな厭なつもりはさらさらないという無自覚な場合です

らあります。でも、心のなかに手放しでは喜べない、同調に拮抗する力、言い方を変えれば人の世

の欲とも、翻ってそれは対峙的な向上心とも言える気持ちが生まれてしまうことがあります。しかし、

私はそれこそが人間なのだとも思います。そして、更に逆説的に言うなら、そんな傲慢さや妬みを

伴うような幸せって、幾ら自分自身が満たされていたとしても、果たして本当の幸せだと言えるの

でしょうか。仮に、そうやって人の妬みや恨みを買ったり、それを切り崩してやろうと思われるような

ものが、揺るぎない幸せなのであれば、人の世の幸せは、なんて菲薄ではかないものなんでしょ

う、と考えてしまいます。財産、地位、名誉、恋人、子供、その一切の変動値にあるものや一定の時

間に限って自分の下にあったもの、他人がはかった肩書きに一喜一憂していては、きっと今後とも

それを失わんが為に、虚勢をずっと張り続けていかなければならないことになるでしょう。

 

もっと分かりやすく言えば、他人に自慢できる程度のこと=本当の幸福ではないと言う事です。

 

中国の淮南子に『人間万事、塞翁が馬』と有名な言葉がありますが、そういった環境では正に禍転

じて福となし、福は転じて禍となるのです。そして大凡、年老いて身体の自由がきかなくなった頃に

“ああ、私は今まで何をしていたんだろう、あんなに健康な体があったのに。”と、訪れる死をぼんや

りと意識して初めて自分を取り巻くものが、ほんの少しの間だけの借りものだったということに気付

くのです。そこに気付くことが出来るだけ、それはそれで幸せな事かも知れません。

 

さて、話を掘り下げていけば、例えばこんな話があります。

『ここに金貨の入った袋がふたつあります。片方の袋には、もう一方の2倍の金貨が入っています。』

ある慈善家があなたの前に現れて、こう言ったとします。

『どちらかひとつを選んでください。それを差し上げましょう。』

あなたは、左の袋を選びました。中には10枚の金貨が入っていました。

『袋を変更することもできますよ。どうしますか?』

左の袋が金貨10枚だったということは、右はその倍の20枚か、半分の5枚のどちらかです。さて、あ

なたはそう言われたとき、右の袋を選び直すでしょうか。ここが、幸せな人か否かの分かれ道です。

いったい幸せな人とは、“ 左の袋を選んでよかったのだ。 ”と思える人のことであり、不幸な人とは、

“ 右を選んだほうがよかったのではないか。 ”と悩み、くよくよと後悔する人のことでしょう。右の袋が

左の倍だったのか、半分だったのか。そんなことはさして重要ではありません。どちらにしろ、多い金

貨が入っているほうの袋を選ぶ確率は2分の1なのです。重要な問題は、金貨を差し出されている

こと自体が幸せだということに気付いているかどうかということです。右の袋を選び直すなら、はじめ

から右を選ぶのと同じことです。そういう人は、もしはじめに右を選んでいたなら、やはり左に変更し

ていたでしょう。どちらを選ぼうかと考えているうちは嬉々としていたのに、金貨10枚という具体的な

数字を示されれば、それがとたんに色褪せて見え、新たな欲が出てきてしまうということです。

 

あれも欲しい、これもしたい、幸せになりたい。

現状の維持ではなくて、更なる上を目指すことは決して悪くない事でしょう。でも、現状に感謝する心

がなければ、どこまでいったとしても得るものなどないのです。幸せは、他人の物差しのみならず自分

自身ではかる何かや、有象無象に依存することで得られるものではないのだと思います。「いま、私は

幸せなんだ。」と思えなければ、その後で、どれだけ望んだものを手に入れたとしても、崖の淵を歩い

ているような不安に悩まされ続けるだけです。

 

果たして、それは“幸せになりたい。”と願うことではなく、もう十分に恵まれている余裕に気付き、ただ、

ひたすら謙虚に感謝の気持ちを持てるかどうか。そう考えてみれば、妬みなど生まれてくる筈もありま

せんね。そして、そこに自然と“幸せ”は集まってくるものなのだと思います。


2011年05月11日 10:02 やっぱり犬が好き。 新着情報
犬が大好きです。
従順だからという単純な理由ではなくて、犬は、いつも私の成長と
あったからなのだろうと思います。保健センターなどの保護擁立に
よって、この頃ではあまり見かけなくなりましたが、私が子供の頃
(30年も前でしょうか) には、往来や公園には野良犬や捨て犬と思
われる雑種犬がよく歩きまわっていました。物心つく頃には、小さい
犬からもう程なく成長してある程度大きくなってしまった犬まで、人
懐っこい彼らと日が暮れるまで遊びました。そして必ずといって良い
程、その犬を家まで連れて帰っては、“返してこい。”と雷を落とされ
ていたものです。半日と一緒に過ごした犬公と惜別の時—そんな
寂しい思いを繰り返しながらも懲りることなく、拾い犬を連れて帰っ
ては“飼いたい”と交渉し続けました。小学生になった或る日、雑種
は雑種なのですが、茶色の毛並み艶のしっかりした子犬を抱えて、
また叱られることを、ぼんやりと考えながら家に帰りました。すると、
母親はもう流石に情けをかけてくれたのか、本当は少しずつ犬にも
興味を持ってくれていたのか“あなたがしっかり世話をする約束が
出来るなら、飼ってもいいよ”と言ってくれたのです。もちろん、夜は
眠れないくらい嬉しかったです。
彼女の名前は『ラック』。幸運を、という意味で母親が名付けてくれ
ました。
それから家族の一員として17年間生きた彼女が死んでしまってか
らは新しい犬を、と偶に探すのですが、本当に賢く人懐っこかった
『ラック』の事を考えると今でもなんだか他の犬を飼うに踏み切れ
ずにいます。そして、大抵気持ちが疲れたりする日、その犬は夢に
出てきます。それは私が心の拠を求めているのか『ラック』が夢枕
に立って応援してくれているのかはわかりませんが、朝、目を覚ま
すと不思議と“あぁ、頑張らなければなぁ。”と思うのです。

2011年05月07日 10:30 5月の空に飛べ、ゲイラカイト! 新着情報
ゲイラカイト(gayla-kite)を知っていますか?
男の子なら小さい頃、誰でも遊んだ記憶があるのではないでしょうか。
ビニール製で、大きな目玉を二つギョロリ付けたあの三角形の洋凧で
す。2030年昔は、駄菓子屋などで200円程あれば簡単に手に入っ
たのですが、最近は、とんと姿を消してしまい、私も“凧揚げ”などという
遊びすら、ずっと忘れていました。そのゲイラカイト、友人の子供に何か
買ってあげようと、ふらり立ち寄ったおもちゃ屋さんで偶然に再会してし
まいました。小さい頃、兄弟で走り回って一生懸命揚げたことや、途中
で糸が切れてしまった凧を自転車で追いかけたこと、電線にひっかかっ
てしまってこってりと怒られたこと (街中では揚げるところが余り無い )、
凧揚げに苦労した思い出が“わっ”と甦りました。季節は冬。お正月に今
度こそは凧を揚げてやろうと、つい買ってしまいました。
今なら上手に出来るだろうか・・・休日に土手やグラウンドを走り回って
も、上手く風を掴めなければ引きずってしまう。どうしてなかなか難しい
ものです。何度か挑戦して、やっとコツを掴んだ今日この頃では、お正
月どころかもう5月。ちょっと予定とは違いますが、来年の年明けには多
少傷んでしまったゲイラカイトを悠々と泳がせることが出来ると、心躍ら
せる初夏なのでした。

2011年04月21日 12:07 偉い人、そのロジック。 新着情報
偉い―君が言う偉い人ってなんだ。
肩書きか、それとも地位のことかな?
肩書きで人を並び替える、そんな整理は私にはできない。
「びびるなよ。」と、若い商社マンに言い聞かせながらも、
目上には彼が気付くよりも先にさっと頭を下げて、ニコリ。
『・・・勝負はこれからだ。』
CMの渡辺謙氏、とってもかっこいいですね。
そういえば4月は、フレッシュマンのシーズンでもありますね。
ここ堂島の交差点でも、おろしたてのスーツにぎこちなく身を
包んだ若者が、上司らしき年配の方に連れられて、お昼時に
足早に歩いて行きます。それは早くも、すっかり溶け込んだ様
子で談笑しながらだったり、いかにもと緊張した面持ちで、上
司の後ろに張り付くようにだったり。因みに私は、“ぎこちな過
ぎる白衣”からのスタートでした(笑) でも、スーツがくたびれて
いく度に、社会人としての、自分の立ち位置や距離感を覚え
ていったり、惑わされたりするものですよね。
学生時代までに、自分をつくり上げてきた“何か”。友達や恋人
の影響だったり、はたまた、ずっとなりたくないと思いながらも、
本当はいつの間にか憧れていた大人の背中の残像だったり。
社会人であるということは、そんな“何か”を嘯(うそぶ)いたり、誰
かを陥れたりすることで守るのではなく、冷めてしまいそうにな
る気持ちを一生懸命温めながら、周りと歩幅を合わせていける
ストライドを身につける。そんなことだと思います。
仕事をするにあたって、それが正しいことならば、そこに自分が
真直ぐ向き合っているかどうかということが、最も大切だと考え
ます。真直ぐでいつづける事が出来るならば、きっとそれが目標
に対しても一番の近道になるでしょう。 よしんば、腰を折られる
ようなことがあったとしても、簡単にブレたりしない筈ですから。
道半ば、私もそんな心持ちで、いつも仕事をしているつもりです。
大人になる。
社会人になる。
若さのエネルギーを忍ばせながらも、引くところは引くことので
きる気概を持つ。そして、思う。『勝負はこれからだ。』

2011年04月11日 10:07 Fresh Face! 新着情報
この春から、メディカに新しいスタッフが2人、加わりました。
まだ緊張が解けないのか、なかなか笑顔も固いのですが ^^
今はあくせくと頑張って、色んなことを覚えていってくれてい
ます。“ 新しく入ったのだから、頑張れ頑張れ!”とただ闇雲
に囃すのではなく、上司は上司として適切な言葉や姿勢、そ
の責任が問われるものだと思っています。
ホームページのトップの写真も新しいメンバーでリニューアル
の予定ですので、乞うご期待。因みにこれは、何故かみんな
笑い過ぎて、NGになった写真 (笑)

2011年04月05日 11:06 花見ならぬ、花“見立て”。 新着情報
風に舞う『花吹雪』。
地面に散り敷かれた花びらが『花筵 (むしろ)』なら、川面に浮かび連なるのは、
『花筏 (いかだ)』。先人はなんと美しく雅な言葉を残してくれたものだと思います。
よく、虫の音が、西洋人には雑音に聞こえ、日本人には妙なる音色に聞こえると
いうのが引き合いに出されますが、これは左脳と右脳の働きの違いによるらしく、
地面や川面に散ってしまった桜の花びらも、左脳だけで解釈してしまえば、ただ
の「ゴミ」。最も、近年では 「バイオ・マス」 という言い方もあるらしいのですが。
それを『花筵』と称し、『花筏』と見るのは、単なる右脳解釈だけではないような気
がしますよね。これは、右脳による感覚的解釈と左脳の解釈との複合による、言う
なればハイブリッドな美意識といえるのではないでしょうか。危うく単なるゴミ、ある
いはバイオマスになりかけている「用済みの花びら」を、既存のテーマである筵や
筏に見立てて「新しい美」に昇華させてしまうというのは、独特の繊細さのなせる技
と言えるでしょう。この「見立て」というのは、日本の美意識のかなり重要な部分を
形成すると思います。かなり綿密な美に対するデータベースが、普遍的な共有財産
として存在しないと、この「見立て」は成立せず、そしてこれが成立するというのは、
高いレベルの文化性の証左と言っていいでしょう。
卑近な例で言えば、春の彼岸に食べるモチを牡丹に見立てて「ぼたもち」と称し、
同じものでも、秋の彼岸になると萩に見立てて「おはぎ」と称するというのは、そう
した共有財産がないと成立しません。ところが、最近はこの財産の共有性が薄れ
てきているので、平気で、春でも「おはぎ」秋でも「ぼたもち」といったりします。いず
れにしても、「見立て」というのは、あまり陳腐な使い方をすると「ベタ」になってしま
うのですが、要所々々で上手に使えば、心の琴線に触れるものがあるのです。
自粛、自粛のお花見でも、そういった観点から心静かに楽しんでみるのも良いかも
知れませんね。

2011年03月26日 10:05 日本人の仏性・東北関東大震災 新着情報
海外で、被災した日本人の忍耐力の高さが取り沙汰されていましたね。でも、一部では
心ない買い占めや、窃盗もありました・・・日本人の心に訊く、秩序や忍耐力って何なの
でしょう。
私が小学生くらいの頃、母からこんな話を聞いた事を憶えています。
母曰く、『道を歩いていて、道端に水撒きをしている人がいました。不意にその水があ
なたに掛かってしまったら(若しくは掛けられてしまったら)、ーさて、あなたは怒る?』
私は、『もちろん、怒る! もし口に出して怒らなくても、とても気分が悪い。』と答えまし
た。
母は、ニコニコしながら、『そう。例えばね、こう思うことは出来ない? “こんな暑い日に
思いがけず水を掛けて貰った、あぁ良かった。”』
??なんで??
『そんなことは望んでもいないし、服がビショビショに濡れたとして、殊にそんなことを
思う人がいるもんか! もし、そんな風に考える人がいたとしたら馬鹿だ。』
猛反発する私に、母は、どうどうと言わんばかりに笑いながら、『そうね。でも、これは
例えばの話だよ。いつもそんな風に思うことが出来れば、世の中に本当に怒ることや、
腹の立つことなんてそうそう無くなるのかも知れないね。』
私は、釈然としないままそのときは“ふん・・・。”と思い、以来その話をすることはあり
ませんでした。そして、近頃になってその話を思い出して考えるのは、それがいわゆる
“ 人の慈愛 ”だということ。人の心の根底にあるべきものなのだろうという事です。日々、
生きていくなかでこのような心象で、本当にそれを行うのはなかなか難しいことなのか
も知れません。この話は極端でもただことさらに、きれいごとだとも思わないのです。
日本は、古来から仏性を重んじる国です。性善説なるもの、仏教では四端の心と言うそ
うで、他者の苦境を見過ごせない憐れみの心・不正を羞恥する心・謙譲の心・善悪を分
別する心などを善の兆しとし、誰もが幼少より、多かれ少なかれ身の周りの懇親しいも
の(大人や仏閣など)を通じてその片鱗を心に刻み付け、成長してきたのです。表面的に
観れば色々な人がいますが、もっと心の奥底にあるもの、です。
窮地において秩序を守り、じっと我を忍ぶことができる奥ゆかしさを美徳とし、それを実
践することが出来るのは、こういう気持ちの表れなのだと思います。
そして、それこそが“人間らしい”ということなのかも知れません。今頑張っている、そして
前を向こうとしている震災被災地の方々。私だって、こうして心を震わせています。
ひとりではない。
みんなが同じ気持ちで、踏みとどまり繋がっていることに敬愛をこめて。

2011年03月10日 10:05 壮行会&同窓会 新着情報
大学院時代の同僚が、この4月からシンガポールへ出向することが決まりました。
そんな流れで、先週末に同僚で壮行会&同窓会を開きました。再会は、実に5年
振りだったのですが、不思議と、私にとってはもっともっと昔のことのように思えま
した。それでも屈託なく昔話をしていると、確かに志同じく、そして少なからずみん
な一生懸命だったんだなと思いました。
また、ゆっくり会いたいです。

2011年03月05日 12:05 震災に寄せて。 新着情報

未曾有のM9.0という観測史上最大の東北地方太平洋地震。

ここ大阪でも、目眩を覚えるような揺れが暫く続きました。一

閃、頭を過ったのは阪神大震災と記憶に新しいNZ地震との

関連。最悪の事態も想定しない訳にはいかず、速やかにス

タッフとともに一時屋外へ退避しましたが、物が落ちたり、壊

れたりという程の震度ではないようだったので、ひとまずクリ

ニックへ戻ることが出来ました。私には、幸い血縁関係にあ

たる者や、知り合いは東北地方におらず、家族の安全を確認

する程度で済んだのですが、その後、続々と報じられる惨状

には言葉を失いました。

 

先ず、救援物資を支える為の募金ぐらいしか出来ていませ

んが、多くの方の命が一刻も早く救われることを切に望みま

す。そして一日も早い復興と人々の心の平穏が戻ってくるよ

う、心から祈るばかりです。


2011年03月05日 11:04 週末のイーハトヴ 新着情報
私たちは、氷砂糖を欲しいくらい持たないでも、きれいに透き通った風を食べ、
桃色の美しい朝の日光を呑むことができます。また私は、畑や森の中で、ひど
いぼろぼろの着物が、いちばん素晴らしいびろうどや羅紗や、宝石入りの着物
に、かわっているのをたびたび見ました。私は、そういうきれいな食べ物や着物
を好きです。
これらの私のお話は、みんな林や野原や鉄道線路やらで、虹や月明かりから
もらってきたのです。本当に、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかっ
たり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしても
こんな気がして仕方ないのです。本当にもう、どうしてもこんなことがあるようで
仕方ないということを、私はその通り書いたまでです。
これらのなかには、あなたのためになる処もあるでしょうし、ただそれっきりの
処もあるでしょうが、私には、その見分けがよくつきません。何のことだか、訳
のわからないところもあるでしょうが、そんなところは、私にもまた、訳がわから
ないのです。けれども、私は、これらの小さな物語の幾きれかが、おしまい、あ
なたの透き通った本当の食べ物になることを、どんなに願うかわかりません。
私は、小さな頃から宮沢賢治が好きです。
彼の心に映るものは、いつも温かく、透き通って見えたのでしょうか。
そういう風になろうと思ってなる人。そういう風になろうと思わずとも、それが
出来る人。現代社会では心が疲れてしまうことが多くて、透き通った心持ちの
まま生きていくには少し窮屈かも知れない。でも、忘れてはいけない大切なこ
ともたくさんありますよね。
たまには、こんな風に温故知新で、古典文学に触れてみるのも良いかも知れ
ないと思う週末です^^

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